シーズン7 (2017)
← シーズン一覧に戻る
エピソード 29
丹後
京の都から北におよそ100キロ、日本列島の日本海側のほぼ中央に位置する丹後は、古くから地政学的に大陸、そして都と密接な関係を切り結んできた。古代、リアス式海岸の入りくんだ地形は天然の良港となり、中国・朝鮮半島との交易を活発化させた。大和朝廷をも惹きつけた丹後には、一時、聖徳太子の母もやってきたと伝えられ、その言い伝えにまつわる地名が残る。中世になると、日本三景「天橋立」が、天国への入り口として都の人々を魅了。江戸から昭和にかけては、秋・冬に大陸側から吹く季節風「うらにし」が育んだ「丹後ちりめん」が、都の着物文化に欠かせないものとなった。北前船の伝統と、ちりめん景気は宮津の町に花街を生み、芸者文化が花開いた。いまも最後の芸妓・から代さんが地元の旅館で座敷を盛り上げている。行き交った様々な文化を重層的に受け入れながら暮らしを育んできた丹後の人々の今を見つめる。
もっと読む北酒場
しんしんと雪が降り、寒さに震える北国の冬。長く厳しい季節を乗り越えられるよう身も心も温めてくれるのは、その土地その土地の酒場だ。舞台は、冬の北海道から東北。寒いのに、わざわざ出向いてあおる一杯。いつもの顔と出会い、冬を明るくやり過ごすための一杯。暮らしの厳しさも切なさも酒と一緒に飲み込み、明日への糧とする。“北の酒場”には、そこに生きる人々のドラマや、歴史と風土が刻まれている。
豪雪に埋もれる秋田の鹿角には、かつて“親不孝通り”と呼ばれ賑わった飲み屋街が。当時から店を開き、毎日着物で客を迎える元気な80代の女将。東日本大震災で、町も住民もすっかり変わってしまった福島の広野町。客の多くは、原発の廃炉に従事する作業員。地元の人と交流が生まれ、仕事への本音が語られる酒場がある。
町の数だけ酒場があり、人は集う。暖簾をくぐれば、温かい人情が見えてくる。北国の酒場を巡る、“北酒場”の物語。
●酒場は学び舎…盛岡に“学校”と呼ばれる酒場。酒と勤勉に向き合い人生を知る、北の学び舎の一日
●酒蔵の宴…老舗酒造の蔵人たちの決起集会。実は彼らの大半が農家。米を育て、酒を造る米所の酒場
●親不孝通りの意地…鉱山の男で賑わった秋田県鹿角。客が減っても精一杯冬をもてなす不屈の女将
●哀愁のロシア酒場…物悲しい異国のしらべ。ロシア民謡を歌い、北の大地に根付いた歌い手の人生
●故郷は遠くにありて…福島第一原発から30km圏内の広野町。廃炉のため作業員が全国から集う北酒場
もっと読む奥会津 檜枝岐(ひのえまた)
“桃源郷”と呼ばれた小さな山間の村がある。福島県檜枝岐村。一年の半分が雪に閉ざされ、気温の低さや日照不足の影響で作物が育ちにくいこの村では、江戸時代、飢饉(ききん)の時に多くの死者を出すなど過酷な歴史が刻まれてきた。それでも、村の人々は、限られた山の恵みなど、暮らしの糧を分かち合い、力を合わせることで厳しい自然と向き合ってきた。村の人々の営みから“桃源郷”と呼ばれた理由を探る旅(2017年放送)
もっと読む堺
大阪市の南に位置する堺。空から見ると仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をはじめとする「百舌鳥古墳群」の大パノラマが広がる。巨大な古墳は海からの見栄えを意識して設計され、出土物はこの地が鉄器など様々な大陸の文化をいち早く取りこんだ技術革新の場だったことを物語る。その技は現在の打刃物につながり、さらには「もののはじまりみな堺」と謡われ、三味線や線香など様々な“日本初”を生み出た精神として受け継がれた。そして中世、南蛮貿易で巨万の富を得た自治都市・堺に千利休が誕生。その茶の湯の豊かな楽しみは今も形を変えて根付いている。堺は大坂夏の陣、そして太平洋戦争の空襲と2度も灰燼に帰したが、この町と海との深い関係を物語る奇祭「やっさいほっさい」や、古墳の町の独特の正月迎え「百舌鳥精進」など、古い伝統を今に伝える。古墳・中世・近現代の三つの時間を行き来しながら、何度も滅ぼされながら甦った奇跡の町=堺を美しい映像と共に描いていく。
もっと読む浜松
東京と大阪のほぼ中間に位置する東海道の要衝・浜松。豊かな自然と多彩な伝統を背景に、個性あふれる文化・産業を作り上げてきた。そもそも天下統一を遂げる前の徳川家康が苦難の時代を過ごしたのが浜松城だった。失敗を恐れず何にでも果敢に挑戦する浜松人の心意気は、その後「浜名湖のうなぎ」や「世界的な楽器メーカー」を生み出し、今も「やらまいか(やってみようじゃないか)」精神と呼ばれ人々に受け継がれている。
浜松のもう一つの名物が「風」。特に、冬に吹く北西の強風「遠州のからっ風」が有名だ。その風を使って凧を揚げ、みかんをおいしく育ててきた浜松っ子は、「やらまいか」精神で逆風を順風に変えてきた。そして山間の村では、能や狂言の原型とも言われる古い「田楽」が残されている。かたくなに伝統を守りながら新しいことに果敢に挑戦してきた浜松の人々の心意気を描く。
もっと読む花紀行
南北に長い日本列島。そこには季節の移り変わりと共に花と暮らす人々がいる。
1月、日本一早い桜が沖縄で咲く頃、寒風吹きすさぶ群馬では、かつての農地を満開の蝋梅(ろうばい)の花が飾る。地元の農家たちが耕作放棄地を借り上げ、一本一本植えながら面積を広げてきた。相模湾を臨む神奈川県二宮町の吾妻山公園で富士山を背景に菜の花が満開となるのは2月。何もなかった公園の斜面を見事な菜の花畑に変えたのは、50歳を過ぎてから造園の仕事を始めた長谷川芳男さん(85)。北海道にも花に魅せられた人がいる。帯広市の紫竹昭葉(しちく・あきは)さん(89)。63歳の時、夫を失った悲しみを乗り越えるため、思い立って十勝の広大な大地に草花を植え始めた。
「花」を慈しみ、「花」に生かされ、「花」を通じて結ばれてきた人々。その営みの物語を日本各地にたどっていく。
もっと読む隅田川
唱歌『花』の歌詞“春のうららの、隅田川”で全国的な知名度を誇る「隅田川」。東京都の東部を流れ、東京湾に注ぐ全長23.5kmの川。春は河岸に立ち並ぶ桜の花々、夏は恒例の花火大会、秋から冬にかけては屋形船からのお月見に紅葉と、四季折々の風物で彩られる。
東京における隅田川の役割を強くしたのは、江戸時代。江戸城下の建設のため関東近郊から木材や、野菜や醤油といった生活物資など、物資輸送の大動脈として利用。両岸には蔵が立ち並び、江戸の経済、生活を支える大きな存在だった。一方で、舟遊びや花火など庶民の憩いの場となり、周辺には活気溢れる盛り場ができ、江戸の名所として賑わった。その後、高度成長期には物流が陸上交通に転換、さらに生活排水などが流れ込み水質は悪化、イメージは激変してしまった。
しかし、そんな歴史を歩んできた隅田川の周辺で暮らす人々の暮らしは今も変わらず息づいている。隅田川のほとり江東区潮見にあるのは、江戸時代から続く和船専門の造船所。江戸前の和船や漁船、ヨットやモーターボートなど、木造の技術にこだわりながらも時代に合わせ様々な船をこれまでに作ってきた。
そして、春の隅田川の風物詩といえば“早慶レガッタ”。100年を超える歴史をもち、様々な名勝負を繰り広げてきた。今年も4月にレースが行われる。
「隅田川」。春を迎えた東京の大動脈の風景を辿りながら、川を縁にこの地で古くから培われてきた伝統と人情を描いてゆく。
もっと読む種子島
本土最南端の鹿児島県佐多岬の南東40キロに浮かぶ種子島。黒潮が温かな南風を運んでくるため年間を通じて暖かく、最も標高が高い場所でも282メートルしかない平坦な地形が特徴だ。島を吹き渡る風は強く、台風の時期には作物が大きな被害を受けるなど島は常に風の影響を受けてきた。家や田畑の周りには長い年月をかけて木々が植えられ「屋敷森」や「ガロー(神の森)」と呼ばれている。防潮林として機能するこれらの林は大切に守られ「切ってはならぬ」と言い伝えられてきた。風や黒潮は交易を盛んにし、中国や琉球の文化を島に運ぶ役割も果たしてきた。年末から1月にかけて島は個性豊かな郷土芸能で彩られる。強烈な風が吹き渡る冬は、種子島に生きる術(すべ)が凝縮した季節でもある。荒海の中をこぎ行く漁師、風を読んで行う鴨猟、そして風がもたらす大波にひかれて島に移住してきたサーファーたち・・・。
古来より、風の猛威を克服し生きる力に変えてきた“風の民”の物語。
もっと読む伊豆大島
東京の南、約120km。黒潮に浮かぶ伊豆大島は、周囲約50kmの伊豆諸島最大の島だ。活火山、三原山の噴火を何度も乗り越えながら歴史を刻んできた。島の総鎮守は三原大明神。三原山それ自体が御神体だ。前回の噴火は昭和61年。溶岩流が町へ流れ出し、全島民が島を離れざるを得なかったが、今も島民は噴火を「御神火さま」と親しみを込めて呼び、信仰を守っている。
三原山は信仰の他にも島民の暮らしに大きな影響を与えてきた。伊豆大島といえば誰もが思い浮かべるツバキ。実は、ツバキは火山灰の水はけの良い土を好む植物。島は300万本のツバキで覆われている。島民はそのツバキを防風林にして家や畑を守り、秋に実のなる種から油を取るなど、暮らしに役立ててきた。観光のシンボル「アンコさん(島の女性)」が水桶を頭に載せたかつての光景も、そして特産干物クサヤの誕生物語も、みな火山灰の痩せた土地で培われた生きぬくための知恵だ。
冬から春へ。伊豆大島は、真っ赤なツバキから白く可憐な大島桜へ装いを変えていく。火を噴く島の人々の、いつもの春の物語。
もっと読む水の旅 潤いの道
生きる上で欠かせない“水”。日本では、世界平均の2倍にあたる豊富な雨と雪から水は生まれ、国土の7割を占める山々から河川や湧き水となり人里へ降りてくる。人々は知恵と工夫をこらし、水と向き合い生きてきた。出羽三山・月山の麓で、田んぼを潤す雪どけ水。北アルプスに囲まれた安曇野で、わさび栽培を支える湧き水。利根川沿いの水郷で、人々の交通手段だった水路の水。東京の下町で、暮らしに潤いをもたらす昔ながらの井戸水。古都京都で、平安時代から人々が敬う鴨川の聖なる水。雨の少ない香川で、人々が分かち合うため池の水。四国・仁淀川で、子どもたちが大人への一歩を踏み出す試練の水…。水にまつわる習わしは、ふるさとの数だけ存在する。人々に恵みと潤いをもたらす、水の旅を描く。
もっと読む知多半島
愛知県西部、名古屋市の南に突き出た知多半島。伊勢湾と三河湾に囲まれた風光明媚な土地で、高い山はなく平野が続いている。大きな川がないため、農業や生活のための水は常に不足してきたが、質の良い地下水を利用した醸造業が古くから盛んだ。また鉄分を多く含んだ粘土は、日本六古窯の一つである「常滑焼」をこの地に花開かせた。江戸後期から明治にかけては「尾州廻船」と呼ばれた廻船問屋がそれらの特産品を江戸に運び、この地に富をもたらした。商人の知恵や、海の男たちの心意気は、今も「潮干祭り」に伝えられている。水と土と海の恵みが形作ってきた知多半島の風土と歴史。人々は今も先人たちの偉業に祈りと感謝を捧げ、新しい物語を紡いでいる。
もっと読む武蔵野
国木田独歩の随筆「武蔵野」(明治31年)で全国的な知名度を獲得した“武蔵野”。明確な定義はないが、埼玉県川越以南から東京の府中までの間に広がる広大な地域を指すと言われる。万葉集を始め、古来様々な文芸作品に登場してきたが、描かれる姿はどれも雄大な大自然だ。古代の多摩川が削った「ハケ」と呼ばれる崖地からなる武蔵野には多数の湧水があり集落が形成された。江戸時代には玉川上水が開削、新田開発も盛んに行われ、多くの人が住み始めるようになる。今もこの地には、豊かな自然を利用した暮らしが残っている。埼玉県三芳町では江戸時代の入植者の末裔が、屋敷地、農地、平地林を整然と区画した“三富新田”という農地で伝統的な農業を行っている。林は強風から畑を守るだけでなく落ち葉が堆肥になり作物が栽培できる。300年以上続く循環型農法だ。その一方、復活させたものもある。今年百周年を迎える井の頭公園の井の頭池は、徳川家康が関東随一と讃えるほどの名水だったが、1960年代の急速な都市化によって地下水が枯渇し水質が悪化。見る影もなくなった池を再生させようと立ち上がったのは、地元の住民たちだった。池の水を抜き、底を天日干しするなどの対策を続けた結果、池の周りの自然も甦りつつある。番組では、春の武蔵野を巡り、この地で培われてきた文化や人々の暮らしを通して、古代から多くの人々に愛されてきたそのわけを探る。
もっと読む四国山地
四国の中央を東西200キロにわたって貫く四国山地。名前がついているものだけで、600を越える峰々が連なる。この地の人々は、山の谷間をぬうように集落を築き、暮らしてきた。西日本第二の高さを誇る剣山(つるぎさん)の麓には、「ソラ」と呼ばれる集落が点在する。ソラの人々は斜度30度にもなる急斜面に畑を切り拓き、暮らしを立ててきた。斜面の土はどんどん下へ崩れるので、作付け前には「土上げ」が欠かせない。何をするにも大変な斜面の畑だが、寒暖の差が大きい山でとれた野菜は甘くておいしいという。
時に優しく、時に厳しい山の暮らし。古来、人々は山そのものを神と崇めてきた。春になると剣山には、白装束に身を包んだ農家の男たちが現れる。命綱なしに断崖絶壁をよじ登るという過酷な修行に挑むのは、集落の豊作を神に祈るためだ。また、深い渓谷や霧深い森が広がる四国山地では、山への畏怖の念から、数々の妖怪伝説が生み出された。今も、子どもたちは山遊びに出かけては、未知の妖怪と出会って帰ってくるという。
山の険しさに汗を流し、山の険しさに豊かさを見出す。四国山地に抱かれて暮らす人々の、いつまでも変わらない営みをみつめる。
もっと読む対馬
「遠く飛べ、朝鮮半島まで飛べ、朝鮮半島まで行って、米買うてこい」。島の子どもたちは昔、タンポポの綿毛を吹きながら、こう唄ったという。
九州と朝鮮半島の間にある対馬。3万人ほどが暮らすこの島では、朝鮮半島との深い関係を物語る風景に出会う。人々が手を合わすのは朝鮮渡来の仏像。大陸から伝わった古代米・赤米の田んぼもある。島が「日本誕生の、へその緒」と呼ばれるゆえんだ。
対馬は東アジアの平和の要でもあった。江戸時代、守護大名だった宗家は朝鮮通信使のエスコート役を務めた。秀吉の出兵で悪化した関係・・・それを修復するための交流をバックアップする一大事業だった。朝鮮王朝と江戸幕府、互いの面子を立てながら友好を演出した宗家。現代にも通じそうな国際交流の秘訣だ。北部の比田勝(ひたかつ)港は釜山までわずか50km。戦中まで定期船があり、お年寄りは「キネマも、晴れ着を買うのも、義歯を作るのも釜山」と振り返る。最近また交流が盛んになっている。年間30万人に上る韓国人観光客。人気は免税店や100円ショップだ。8月の祭りでは「朝鮮通信使行列の再現」が復活。日韓の若者が協力して祭りを盛り上げる。
海峡は両国を隔てる壁でなく、つなぐ道。夏の対馬を旅すれば、友好のカギが見えてくる!?
もっと読む八ヶ岳
長野県と山梨県にまたがる八ヶ岳。南北30kmにわたって20以上の山々が連なる。ここには、昔も今も、未来を切りひらきたいと願う人々が集まってくる。
八ヶ岳を代表する観光スポットといえば裾野に広がる清里高原。ジャージー牛が草をはむのどかな風景には、苦難の歴史が秘められている。かつて清里は、わずか3軒の家があるだけの地域だった。そこに昭和初期、ダム建設で故郷を失った奥多摩の人々が入植。酸性の火山灰地を土壌改良し野菜を作ったが、生活は苦しかった。酪農を始めたのは戦後。アメリカ人ポール・ラッシュから牛の育て方を学んだ。やっと生きるすべを見出した清里の人々。だがその暮らしは1970年代後半、観光ブームで激変する・・・。
山の上には風変わりな小屋がある。玄関には赤提灯。登山者は通常夜更かし禁物だが、ここでは酒を飲み遅くまで語り合う。主人はサラリーマンを辞めて八ヶ岳で新たな人生を見つけた男。夢や悩みを抱えて集まる登山者たちが、明日への力を取り戻す場所だ。農業を志す若者が集まるのが、西の麓にある農業実践大学。戦前から多くの農業指導者を育ててきた。50人ほどが朝5時前から野菜の生産・管理を学んでいる。
訪れる人々を、優しく、ときに厳しく受け入れ続ける八ヶ岳。人々を前向きにさせる魅力の源泉を探る。
もっと読む山口
本州最西端の山口県。その県都山口市は県庁所在地でありながら、こぢんまりとした静かな町。盆地に暮らす人口はおよそ20万。しかし室町時代には“西の京”として栄華を極めていた。時の領主・大内氏は、京都を模した街づくりを行ない、絵師・雪舟ら文化人を次々と招き入れ庇護した。
そうした「大内文化」を今に伝えるのは、街に残された寺社仏閣。今も11代続く桧皮葺師が大内時代の寺社を守り抜いている。山口には伊勢神宮の分社もある。とある集落では、毎日お参りをする「日参」を簡略化。神様を分霊した小さな祠を回覧板のように回す「日参様」という風習を残す。
また芸能を愛した大内氏の影響で、今も市民は芸事に熱心だ。明治期に家元が途絶えたにもかかわらず、山口の庶民の手によって民間伝承で受け継がれている鷺流狂言。旅館の女将が作り上げた奇抜な「女将劇場」。
600年の歴史を愛す人々による“大内氏の夢の跡”の物語。
もっと読む利根川
関東平野を横断し、日本一の流域面積(約1万7千平方キロ)を誇る利根川。古くは「坂東太郎(ばんどうたろう)」と呼ばれ、氾濫を繰り返して人々に恐れられた暴れ川である。しかし同時に利根川は、稲をはぐくむ水をもたらし、江戸と各地を結ぶ水の街道として日々の生活を支えてきた。
今も埼玉県羽生市に残る風習「まわり地蔵」は、百戸ほどの家が回り持ちでお地蔵様を数日間自宅に泊めてもてなす。昔、利根川の氾濫で堰が切れた時に、お地蔵様を背負った僧侶がお地蔵様を村人に託し、自ら人柱となって川を鎮めた事に由来する。下流の千葉・佐原の町には物資を運ぶ船の水路が縦横に走り、河口の銚子にはその船に乗せられる醤油の蔵が立ち並んで歴史をしのばせる。かと思えば、川を遡った山あいには、世界中の観光客が押しかける大露天風呂があったり、今の日本を肌で感じさせる川でもある。
様々な顔を持つ利根川を上流から河口まで旅し、その土地の人と風土に出会う。
もっと読む淡路島
明石海峡を挟んで本州と、鳴門海峡を挟んで四国と接する瀬戸内海最大の島、淡路島。ここは昔から食材に恵まれ、古代から、魚、米、塩、乳製品などを朝廷に献上する『御食国(みけつくに)』の役割を担ってきた。その伝統は、昭和・平成にいたっても天然の鯛を天皇に献上するなど受け継がれている。また、淡路島は"国生み神話"の舞台でもある。古事記や日本書紀によれば、国を創造した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉諾尊(いざなみのみこと)が日本列島で最初にお生みになったのが淡路島だという。二神が結ばれた場所とされる奇岩があったり、二神が最初に作った「おのころ島」だという場所が島内にいくつもあるなど、各地に"国生み神話"が伝承されている。また南部の離島、沼島(ぬしま)では、初盆の死者の魂を船に乗せて送る慣わしがある。極楽浄土は海のかなたにあると信じられているのだ。数々の伝承や祈りが今も日々の暮らしの中に生きている。自然の恵みを神々に感謝し暮らしてきた淡路島の人々の営みを見つめる。
もっと読む丸亀
町の真ん中にシンボル「丸亀城」がそびえる城下町、香川県の丸亀市。瀬戸内海に面した町は県内唯一の一級河川「土器川」が生み出した扇状地にある。雨が少なく、決して農作業に適したとは言えない土地。しかし、人々は川の伏流水などを町中に張り巡らせることで、古くから小麦を栽培したり、遠浅の海に「塩田」を作ったり、知恵と工夫で、この扇状地にある町を豊かにしてきた。江戸時代、「こんぴら詣で」に来る人たちの海の玄関口として栄えた丸亀。下級武士の内職として始まった「丸亀うちわ」はこんぴらさんのお土産の定番として人気になった。うちわは今も全国シェアナンバー1を誇っている。お城とならぶもうひとつのシンボルは、平野の真ん中にそびえる讃岐富士、飯野山。そしてかつてたくさんとれた土器川の「どじょう」。養殖の時代になった今でもどじょう汁は丸亀の人々のソウルフードだ。最初から豊かではなかった町で、知恵と工夫で豊かさを手にしてきた人たちのいる丸亀の風土を、暮らしとともに描いていく。
もっと読む