シーズン1 (1989)
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Episodes 50
第7回 愛の鞭(むち)
天正13年(1585)、おふくとお安(あん)は稲葉一鉄の領地・美濃に帰りました。7歳のおふくは祖父・一鉄から戦国の女のたしなみとして、武芸のほか、あらゆる教養を教え込まれます。ほうそうを患った時には一族の手厚い看護で全快し、献身の尊さを学びます。そして、兄・利宗(としむね)と弟・出来丸の任官もかないました。一方、聚楽第(じゅらくだい)が完成し、豊臣秀吉は天下人の地位を固め、茶々を側室に迎えます。
Read More第9回 夫婦(めおと)模様
文禄4年(1595)、主君・小早川秀秋が筑前名島34万石を相続したため、稲葉正成とおふくも筑前名島城に移ります。平穏な日々は長く続かず、豊臣秀吉は再び朝鮮出兵を命じます。総大将である主君・秀秋と共に、夫・正成が出陣して3か月後、おふくは嫡男・千熊(後の正勝)を産みます。一方、徳川秀忠に嫁いだお江与も千姫を産みます。そして、家康と秀吉は、生まれたばかりの千姫と秀吉の子・秀頼の縁組みを図っていました。
Read More第11回 関ヶ原前夜
慶長5年(1600)夏、徳川家康はあえて大坂を留守にして上杉征討のため会津へ出陣、石田三成は大坂で豊臣恩顧の西国大名らと反徳川の兵を挙げます。大坂城を守る小早川秀秋は微妙な立場です。おふくは「小早川は徳川に味方する」と言う夫・稲葉正成に納得できません。三成は秀頼君をお守りする豊臣の重臣、豊臣に味方するのが人の道ではないか…。しかし、正成は「秀吉亡き後の天下は家康でなければ抑えられぬ」と言います。
Read More第12回 天下分け目
慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦。小早川秀秋の本陣では西軍につくか東軍に内応するか意見が分かれたまま、合戦の火ぶたが切られました。西軍有利と見える中、三成方の合図で出陣しようとする秀秋を、家老・稲葉正成が命がけで止めます。家康方が決断を促すため小早川軍へ発砲、若い秀秋が驚くすきに正成が西軍攻撃を命じます。小早川の寝返りを機に西軍は敗北に転じます。主君・秀秋と言うより、家老・正成の決断でした。
Read More第13回 戦後の家族
大坂城へ無血入城した徳川家康は、諸大名の処分と論功行賞を行います。豊臣家は65万石の一大名に格落ち、小早川秀秋は岡山に52万石の新しい所領を得、家老・稲葉正成も加増されました。しかし、岡山は西軍・宇喜多秀家の旧領。寝返った秀秋への憎しみは強く、しぜんと秀秋の心はすさみます。抵抗する領民らの対応を巡り、秀秋は、豊臣を裏切らせた正成に刀を抜きます。その夜、正成は一家全員で岡山脱出を決意しました。
Read More第15回 秀頼・千姫婚儀
慶長8年(1603)、徳川家康は征夷(い)大将軍に任ぜられます。豊臣秀吉の忘れ形見の秀頼をさしおいて天下人になった家康に憤る茶々(ちゃちゃ)には我慢しかありません。徳川秀忠に嫁いだ妹・お江与も豊臣と徳川の架け橋として長女の千姫を差し出します。その夏、11歳の秀頼と7歳の千姫の婚儀が行われました。一方、おふくは夫・稲葉正成の任官のため、兄の利宗(としむね)や三条西実条(さねえだ)に助力を求めます。
Read More第16回 乳母の条件
慶長9年(1604)、おふくに三男・高丸(後の正利・まさとし)が産まれ、3か月が過ぎるころ、三条西実条(さねえだ)の使いが美濃を訪れ、徳川秀忠の正室・お江与の方に産まれる子の乳母(めのと)に、おふくを推薦したと言います。自分の家族が大事なおふくは断るつもりで徳川家康に会います。乱世の厳しさを知るおふくこそ、徳川三代目の乳母にふさわしいと説得する家康に動かされ、おふくは乳母になる決意を固めます。
Read More第17回 世継ぎ誕生
家族を残し、おふくは長男・千熊(後の正勝)と江戸城に入りました。懐妊の祝詞を述べるおふくを、お江与の方は異様なまなざしで見つめます。お江与の方の伯父・織田信長を討った逆臣、明智光秀の腹心の娘がおふくでした。「あの女の乳は決して飲ませぬ」とお江与は荒れます。女子が産まれれば、おふくと千熊は美濃へ帰れます。しかし、慶長9年(1604)7月、徳川家待望の男子が誕生しました。後の三代将軍・家光です。
Read More第18回 二代目決まる
おふくは徳川家世継ぎの乳母(めのと)として、長男・千熊(せんくま)は小姓として、江戸城にとどまりました。徳川家康の幼名を与えられた竹千代に乳を与えることもできないお江与のため、おふくは1日1回、お江与が授乳できるよう計らいます。一方、家康は将軍職を秀忠に譲ることを考えていました。慶長10年(1605)春、朝廷から秀忠に将軍宣下(せんげ)がなされ、将軍職が徳川家の世襲であることを天下に示しました。
Read More第19回 女の言い分
徳川家による将軍職の世襲は、茶々(ちゃちゃ)を動揺させます。わが子・秀頼が関白になる道が断たれたも同然です。しかも徳川は高台院(寧々・ねね)を通じて、徳川秀忠の将軍就任の祝いに参列するよう言ってきました。誇り高い茶々は一蹴します。家康は政治の実権を握り、幕府は秀忠にゆだね、駿府と江戸との二元政治を始めようとしていました。一方、満2歳を迎える竹千代がはしかにかかり、おふくは寝食を忘れて看病します。
Read More第20回 ゆらぐ夫婦
慶長11年(1606)3月、おふくは、駿府に出発する前の徳川家康に、竹千代が乳離れしたら暇をもらいたいと願い出ます。おふくに絶大な信頼を寄せる家康は困惑し、次に江戸に戻るまで待つように言います。しかし、家康が江戸へ戻らない間に竹千代の2歳の誕生日が過ぎ、お江与は次の子を身ごもります。同年9月、江戸城・本丸が完成、将軍・秀忠が入城するころ、おふくの夫・稲葉正成は家康から駿府城に呼び出されます。
Read More第22回 名ばかりの将軍
国千代に対するお江与の偏愛ぶりにおふくは不安を抱きます。慶長12年(1607)10月、お江与は五女・和姫を出産しました。将軍・秀忠は徳川の世を盤石にするため、和姫を朝廷に入内(じゅだい)させるつもりです。12月、夫・正成の義弟で美濃清水城主・稲葉通重(みちしげ)が不祥事を起こしますが、秀忠が寛大な処分にしたところ、駿府が異議を唱えました。秀忠は駿府が江戸に力を誇示しているように感じざるを得ません。
Read More第23回 悲劇の予感
ある日、お江与の住む部屋の庭にたまたま入り込んだ兄・竹千代の小姓・千熊(せんくま)たちと弟・国千代の小姓たちがけんかをしました。兄弟の対立が小姓にまで及び、おふくもお江与も心を痛めます。お江与はおふくの子・高丸を国千代につけ、兄・千熊とともに徳川家の兄弟が助け合うよう支えて欲しいと望みます。しかし、お江与は家康が竹千代を優遇し、諸大名が国千代を軽く見ることに腹を立て、竹千代の目通りを許しません。
Read More第25回 こころの教育
おふくは兄・竹千代に世継ぎとしての自覚を持たせるため、江戸の庶民の暮らしに触れさせようと考えます。将軍家嫡男が城外に出るなど考えられませんが、老中・土井利勝の協力でかなえられました。慶長15年(1610)秋、将軍・秀忠が思いを寄せるお静の妊娠が判明し、おふくはお静を江戸の近郊に預けます。竹千代やお静の件は、おふくに対するお江与の態度をますます硬化させ、幕閣を二分する事になります。
Read More第26回 生き残る道
慶長16年(1611)、徳川家康が秀忠に将軍職を譲って6年が過ぎました。一大名になったとはいえ豊臣への不安が消えない家康は、同年3月、政仁(ことひと)親王の即位の祝いに上らくする機会を利用して、成人した豊臣秀頼と二条城で対面しました。秀頼は臣従の姿勢を示しますが、堂々たる器量に家康は脅威を覚えます。同時に世継ぎを巡って対立する江戸城の奥のうわさにも無関心ではいられなくなりました。
Read More第27回 舅(しゅうと)から嫁への手紙
駿府の徳川家康からお江与に手紙が届きます。お江与が嫡男・竹千代を疎んじ、国千代を世継ぎに決めていると叱責した内容です。駿府派の本多正信・正純のざん言と疑ったお江与は、国千代を擁立する大久保忠隣(ただちか)らと本多父子の失脚を謀ります。一方、国千代が世継ぎになるといううわさで、竹千代方は諸大名からの贈り物が途絶え、奥向きが困窮していました。ある日、おふくの元に母・お安(あん)の死の知らせが届きます。
Read More第28回 和平か決戦か
国千代派の大久保忠隣(ただちか)が重臣筆頭になり、お江与の力が強くなります。駿府派の重臣・本多正信、土井利勝を頼みとする竹千代とおふくは、不遇の日々に耐えていました。しかし、大久保忠隣が謀反の疑いで失脚します。これは、幕閣が二分し幕府の基礎が揺らぐと懸念した家康が執らせた措置でした。さらに、最後の不安の火種、豊臣潰しに着手します。家康が仕掛けた方広寺の鐘銘事件を巡り、ゆさぶられた豊臣は…。
Read More第30回 ああ大坂城
徳川の講和の条件は豊臣65万石の安どなど寛大な内容に見えましたが、家康は大坂城の二の丸・三の丸の取り壊しを手始めに、外堀のみならず内堀まで埋めてしまいました。慶長20年(1615)3月、家康は豊臣に法外な要求をします。豊臣秀頼が大坂城を出て、大和か伊勢に国替えするか、新しく召し抱えた浪人たちを城から追放するかの選択です。ついに豊臣は覚悟を決め、大坂夏の陣の火ぶたが切って落とされます。
Read More第31回 終戦と女たち
徳川家康の孫・千姫が大坂城を抜け出して家康の本陣に現れ、夫・豊臣秀頼らの助命を願い出ます。しかし、秀頼と茶々の最期を知らされた千姫は家康を深く憎みます。これで家康の心配の種、豊臣家は滅亡しました。竹千代(後の家光)は、夫を失った姉・千姫と姉の茶々を失った母・お江与の悲しみに接し、祖父・家康と父・秀忠に激しい怒りを覚えます。竹千代と秀忠の対立は、養育係のおふくも責任を問われかねません。
Read More第32回 家康の遺言
徳川秀忠は、反抗する竹千代(後の家光)の気性を恐れ、素直な国千代を世継ぎにと考えます。おふくは駿府の家康を訪ね、秀忠と竹千代の対立の経緯を伝えました。早速、家康は江戸城に入り、「徳川の家督は代々嫡男とし、三代将軍は竹千代が継ぐこと」と申し渡します。秀忠に反論の余地はなく、お江与も豊臣との戦に異議を唱えた竹千代の成長に納得し、竹千代の世継ぎ決定を喜びます。半年後、家康は75歳の生涯を閉じました。
Read More第37回 先立つ妻に
次の世継ぎをもうけることは、将軍家の奥を預かるおふくの責務です。しかし、将軍家光は正室・孝子の寝所へ行こうとしません。困り果てたおふくは側室選びに取りかかります。寛永3年(1626)7月、朝廷から官位を受けるため上らくした秀忠・家光・忠長のもとに、お江与危篤の知らせが届きます。公務の残る秀忠と家光を京に残して忠長は3日で江戸城へ戻りますが、間に合いませんでした。お江与54歳、孤独な最期でした。
Read More第39回 兄弟は他人
徳川家光が三代将軍になって5年、まだ世継ぎは生まれず、弟の駿河城主・忠長が家光を脅かす存在になり始めます。そんな時、将軍家光が疱瘡(ほうそう)にかかってしまい、将軍職が忠長に移ると見た大名は、ご機嫌伺いに駿河へ駆けつけます。しかし、おふくが薬断ちまでした献身的な看護のおかげで、家光は奇跡的に回復しました。秀忠と家光のおふくへの信頼は増し、おふくは徳川で並ぶ者のいない権勢を持つ存在となります。
Read More第40回 『春日局』賜わる
寛永6年(1629)、天皇の譲位が幕府に伝えられます。中宮(皇后)・和子には内親王(女子)しかいないので女帝誕生となれば、実家である徳川の横暴と見られます。譲位撤回のため、おふくが使者として和子と会見。天皇にも拝謁(はいえつ)し、春日局(つぼね)の名を与えられます。しかし、武家の一召使いが不敬とされ、それが天皇譲位の口実となります。おふくが汚名を着ることで、幕府は傷つかずに済みました。
Read More第41回 次男の憂鬱
徳川秀忠の孫・興子(おきこ)内親王が皇位を継承し、秀忠の宿願は果たされました。一方、弟・忠長が江戸城修復の賦役(ふえき)を拒み、兄・家光と争う姿勢を示します。おふくは側近・稲葉正利に忠長をいさめるよう忠告しますが、正利は聞き入れません。病に倒れた秀忠は、後顧の憂いを断つため、忠長に甲府幽閉を命じます。秀忠はお静との間の子・保科正之とも対面し、寛永9年(1632)1月、54歳でこの世を去りました。
Read More第42回 身内を切る
徳川秀忠の死を知り、甲府に幽閉されている忠長は悲しみと絶望に襲われます。家臣・稲葉正利は主君を救うため母・おふくを頼りますが、江戸城内には逆風が吹いていました。熊本城主・加瀬忠広が、忠長と共謀して謀反を計画したとして改易、さらに忠長の高崎幽閉が決断されようとしていました。将軍・家光は自分が異を唱えれば幕閣は割れると考え、忠長の忍耐力に期待します。それから1年、忠長は28歳で自ら命を絶ちました。
Read More第43回 さらば吾子(わがこ)よ
主君・徳川忠長の死によって弟の稲葉正利は熊本の細川家預かりの身となります。おふくは家光の心遣いで正利に面会しますが、母と子は心のふれあいが無いまま生涯の別れとなりました。さらに、兄の正勝が要職の激務から病気がちになり、小田原城で急死します。2人の子を失ったおふくは悲しみに沈みます。ある日、気晴らしに上野へ花見に出かけたおふくは、町で古着を売っている娘を見て驚きます。あの紫にうり二つでした。
Read More第44回 おんなの目
亡き徳川家康の側室・お勝は、2人の子を失ったおふくを慰めるため、上野の花見に誘います。おふくは、花見で紫に生き写しの娘を見かけます。紫はかつて家光が恋し、そのため自害した吉原の遊女で、すでに10年が過ぎていました。その娘の名はお楽。家光の心の傷を癒やし、さらに、世継ぎを設けるため、おふくはお楽を部屋子として大奥に召し抱えます。一方、家光は政務が忙しいからと、おふくの世話した側室に目もくれません。
Read More第45回 三代目の力
三代将軍・徳川家光は30万の大軍を率いて上らく、めいの明正天皇や妹の東福門院らに拝謁(はいえつ)します。父・秀忠の死から2年半、家光政権の力を天下に示しました。また、参勤交代の制定や日光東照宮の造営も果たします。一方、お楽の奉公も2年が過ぎ、おふくは家光の側室にふさわしい女性としての養育に意欲を燃やします。大みそか、奥女中らが年越しの無礼講を楽しんでいる所をのぞいた家光は、お楽の姿を見て驚きます。
Read More第46回 忘れえぬ面影
徳川家光は紫に生き写しのお楽の事を知り、おふくを呼びます。2年もの間、お楽を隠していたことを責め、すぐ部屋へ呼ぶように命じます。お楽は訳もわからぬまま家光と2人だけにされたあげく、抱きつかれてしまいます。家光をひっぱたき、部屋へ逃げ帰り荷物をまとめるお楽に、おふくは家光と紫の悲恋を語り、徳川の世継ぎを生んで欲しいと頼みます。おふくの心情に打たれ、家光の優しさに接したお楽は側室になる決意をします。
Read More第47回 反逆の理由
おふくの権勢は幕閣を動かすまでになり、諸大名は競って大奥へ金品を送ります。若い幕閣らは、それを悪弊として禁止します。しかし、その金品は大奥に奉公する娘らの実家に向けて、苦しい暮らしの助けとして大奥から相応に配分されていました。寛永14年(1637)秋、3万7千人のキリシタンが蜂起し、島原の乱が起きます。天草四郎時貞を頭領に、信仰で結ばれた農民の抵抗は予想以上で、幕府軍は鎮圧に3か月かかりました。
Read More第49回 女の生きがい
寛永18年(1641)2月、徳川家光の側室・お楽の懐妊で、大奥は期待と緊張が高まります。おふくは誰より懐妊を喜びますが、乳母(めのと)選びが始まると、乳母のつらさを知っているだけに複雑な思いです。難航の末、乳母が決まります。同年8月、お楽は男子を出産し、江戸城は世継ぎ誕生に沸きます。しかし、乳を飲ませることも抱くこともできないお楽の不幸がここから始まります。幕府にとって大事なのは世継ぎだけでした。
Read More第50回(最終回) 献身の生涯
諸国では飢饉(ききん)が続き、おふくの進言で徳川家光は農業政策に着手します。この政策が、その後の徳川300年を支える基礎となりました。寛永20年(1643)夏、おふくは病床に伏します。見舞いに来た家光が薬湯を飲ませると、おふくはひそかに懐へ流し込みます。家光が疱瘡(ほうそう)にかかった時の願掛けで、生涯薬を口にしないと誓ったためです。同年9月、おふくは家光にささげた65年の生涯を静かに閉じました。
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